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不登校 何が子どもを元気にするのか? 〜親に知ってほしいこと〜

不登校 何が子どもを元気にするのか? 〜親に知ってほしいこと〜

(2011年6月5日 公開イベント)
講演 奥地圭子

  皆さんこんにちは。東京シューレの代表の奥地でございます。

  私自身は、自分の子どもがもう30年くらい前になるんですけど、登校拒否と当時言っていましたが、学校へ行けなくなり、その事で大変学ぶ事がありました。その後、「登校拒否を考える会」という親の会をやったり、その親の会の皆さんと、東京シューレという学校外の場を作ったりしました。その流れの中で、通うだけではなくて家庭でも育っていけるね、という事で、その応援をしたいということからホームシューレの活動が始まったり、東京シューレ葛飾中学校を始めるというような流れで、今を生きています。

  考えてみると、そういう意味では不登校の子どもたちとの付き合い、それからその親の皆さんとの付き合いが大変長いわけですが、今日は、不登校をした場合に、やっぱりなかなかこう、元気が出なくなっちゃうわけですが、何が子どもを元気にするんだろうかっていう辺りにポイントを置いて、私が出会ってきた事、学んできた事をお話ししたいと思います。

  私たちは子ども、若者、当事者から学んでやってきました。それから、親同士お互いに色んな話をするところから学んできました。

  私たちは、とかく大人だと、何だか分かってる気になっちゃうと思うんですけど、私の長い経験で言えば、大人なので子どものことが分かっていると思っちゃったけど、まだ分かっていないんだなっていう出会いを繰り返してきたような気がするんですね。子どもや若い人の話を聞いていくときには、いつでも、そんな「分からないんだな」っていう気持ちで聞くことが大事だと私は思っております。

  今日のテーマですが、何が子どもを元気にするのかという事についてちょっと誤解がないようにお話をしておきたいと思うんですね。というのは、このタイトルを見た途端に、「ええー? 子どもっていつも元気でやっていなきゃいけないの?」みたいな取り方もあり得ると思うんです。私たちは「元気にならないといけない」なんて全然思ってないんですね。「元気にしてない子はダメだ」っていうふうに思ってないんですね。人間っていろんんな時がありますよね。私自身も、特に自分の子どもが最初に不登校になってからの2年余りですか、もうすごく辛くて、非常に元気が出なかったですけれども、人間っていろんな時があって、いいんですね。いつも元気にしていなくちゃいけないと思っていると、無理がくるんですよね。

  東十条という小さい所で東京シューレを始めて間もなく、「元気が危険」っていう言葉がすごく流行りましてね、そういう言葉まであったくらいなんです。というのは、元気だと「これなら学校行けるでしょ」っていうふうに、すごく学校とか家庭で動いちゃったりしますよね。それから「オレって結構元気なのに、これで学校行けないのは、自分がダメなのかな」とか「怠けなのかな」って思ってしまいがちですよね。病気だったら無理矢理そんな事やらせられないのに、子どもの元気な姿を見て親としては背中押してみようかなと思ったり、期待がすごく盛り上がってくる。そのことが違うのかなって思ってきました。

見ハウツーではなく、自分で考える

  それから「何が子どもを元気にするのか?」というタイトルを見た時に、ハウツーっぽい気もすると思うんですよね。「何が」っていうふうに書きましたけれども、これはよくご相談がある言葉なので、あえて、こういうタイトルにしてみたんです。だけど、私自身は、不登校とか子どもがどうしたら学校に行くのかというのをハウツーだというふうには全く思っていません。これは、ある子にとっていい方法も、他の子に合うとは限らないですし、ある子にとってそういう認識でものを見たらいいかなって思っても、別の子から見るとそれは違ったりしますので、ハウツーではないんですよね。子どもはみんな違うわけですから、ハウツーはあまり成り立たないんです。

  ハウツーがない、あるいは、それぞれみんな違うんだ、というところに立てば、自分で考えることになるんです。「お医者さんがこう言ってた」とか「本に書いてあった」とか、「カウンセラーがそう言ったんだ」とか、「だからそうするのがいいのよ」っていうことではなくて、やっぱり親が一人一人、子どもと向き合って考えていくのが出発点だと思うんですね。

  子どもたちから見ても、お父さんやお母さんがどこかで聞いて、無理をして何か言っていることとか、心にはないのに言っていることって、すぐ分かっちゃうんですよね。本当に子どもたちは敏感ですし、それが親の心から出ていることなのか、どこかで仕入れてきた知識で「そうやれば上手くいくんだ」と思ってやってるのか、なんていうのは、すぐ分かっちゃうので、時によってはそれで怒っちゃったりもしますね。「そんな心にもないこと言うな!」ということになりますので、親の会なんかでは「自分では思ったつもりだったけど、頭の先で分かっていただけなのかしら」という話もよく出ます。ですから「自分で考えるんだ」っていうところが大事で、「なーんだ、それだったら今日の話を聞きに来なくてもいいじゃん」って思われた方もあるかもしれませんが、ところがどっこいで、自分が考えるにしても、人の話も参考になると。独り善がりで考えたらまた狭い考え方になっていくので、私たちは、今日のような公開企画にも来ていただいたのは大変嬉しい事だなっていうふうに思っています。

「元気」って何だろう

  さて、その「元気」について考えてみたいんですけど、元気って何でしょうね?よく、「うちの子、まだ元気じゃないのよ」とか、「元気のない姿を見たら悩んじゃう」っていう親の方は、いっぱいいらっしゃると思います。例えば、目の前でピチピチした友達がたくさんいて、運動して、走り回っていうのが元気でしょうか?それはもちろん元気に見えますけど、本当に元気なのかもしれないし、見かけだけ元気なのかもしれないんですよ。やっぱり、子どもたちは本当に奥が深い存在です。だから上辺だけでは分からない事は色々ありますね。例えば、その時に元気なフリをせざるを得なかったのかもしれないし、ちょっとホッとしてその日だけは元気だったのかもしれないし、分からないですね。

  それから、非常に元気がないように見える物静かな子どもがいて、あんまり人と話すのも好きじゃなく、一人で本を読んだりゲームをやっていたりして、そんなにエネルギーをどんどん出す感じではなくひっそりと暮らしてる。だけどそのお子さんは、ご飯もしっかり食べ、夜もよく寝て、穏やかに暮らしていて、表情を見ても、何かすごく「あ、それが合ってるのかな」っていうようなお子さんがいる。見かけ元気に走り回っている子と比べると、ちょっと元気がないように見えるかもしれないけど、私はそれでいいんだと思うんですね。色んな子どもの持ち味っていうのがありますから、見かけではちょっと分からないかな。

  また、妹をつかまえては日がな一日中喋りまくっている子がいて、それで妹が「もうお兄ちゃんうるさいよ」と言ってどこか行っちゃうと、今度はお母さんをつかまえてずーっと喋りまくるというような事があって、お母さんが「もう、ちょっと静かにして、うるさいよ!」って言った途端にバーッてキレると。もうキレたが最後、物が飛んできたり、「いつだって俺のこと聞いてくれないじゃないか!」みたいになっちゃって、一見、言葉とか力とか動きがすごく元気いい。

  だけど、それはもう皆さんも多分お分かりだと思うんですけど、本当の元気かっていうと、苦しくてそうなってる事が多いですよね。ですから、元気っていうのもそう簡単な事ではないと思うんです。やはり不安定で苦しそうだったら、本当に元気になるにはどうしたらいいのかなってむしろ考えたほうがいいかなと思うんですね。こんなふうに考えると元気というのは、もうこの漢字どおり、元の気って書きますよね。これってすごく本質を表してるなって私は思っています。自分本来の状態に戻ると元気になるって、私たちは一般に言いますね。

  よくお母さんたちの中で、「最近、不登校する前のあの子に戻った」っておっしゃる事があるんですね。それは元気になっておられると思うんですね。何が元なのかっていうのが分かりづらいので、単純にその元になればいいって意味ではないんですよ。元の自分もすごく無理していたかも分からないから。だけども、どうやら自分本来っていう事と元っていう事は関係があるんじゃないか。自分を確保出来る、自分らしい自分って言ったらいいんでしょうかね、自分になるっていう事と絡んでると思うんです。

  よく子どもたちは、「学校では自分は演じてたんだ」とか、「いい子ちゃんやるしかなかった」とか、「そうしないと怒られるもん」とか、もう必死で、自分とは違う自分をやってたんだよといいます。でもそれってもたないから、とうとう爆発しちゃったとか、とうとう動けなくなっちゃったとかっていう話を、私たちはよく聞くんですけれども、それが不登校につながったなっていう事もあります。そこら辺はとっても大事で、「自分が自分であってはいけない」という環境があったとしたら、それはもう元気になりようがないですよね。

  元気・・・つまり元の自分、元の気になるものを奪ってるものが、社会にいっぱいあるんじゃないか。これがなかなか、見える事ではないので気付きにくいと思うんですね。本当に本人がいい状態、安心して暮らせる状態だったら、自然に元気な感じで暮らしていると思うんですけれども、その元気を邪魔しているものがあるとしたら、それはやっぱり気が付いていく必要があるかな、特に大人は気が付いていく必要があるかなっていうふうに思うんです。

  世の中に元気を邪魔しているものは、いっぱいあると思うんですよね。私も、もっと見えなかったなとか、今も見えないものがいっぱいあると思ってるんですけど、見えないものを見えるようにしていくのが学び合いじゃないかなって思っています。何で不登校だと元気がなくなるんだろうっていう辺りですが、これはもう、詳しくそれを探求していくと、本1冊にもなりそうな感じです。

不登校になるまでの苦しみと、不登校になってからの苦しみ

  今、話を進めるためにお話しますが、私は2つ整理できると思うんですよね。子どもたちが学校へ行っていて、どこかで行かなくなる、行きにくくなるんですけれども、行かなくなるまでに、本当に苦しい、辛い思いをしている子が多いですよね。それから、とても不安が強くなったり自信がなくなったり、学校が怖くなったり人が信じられなくなったりするというような、本人と学校のマイナスの状態が生じている事が多いです。だからいつも緊張したり、「どうしようどうしよう」って思ったりするというのはすごくしんどい事ですから、自分を保っていられなくなって、それで多少は、心配させたくないから元気なフリをしたり、という事もあります。

  それから、勉強に逃げる、スポーツに逃げる、ゲームに逃げるみたいな事もあります。それは私は、全くあっていいと思うんですが、元気がなくなるもとの中に、今、自分がやるべきとされている学校へ通い続けるみたいな事が、何かの理由で辛い経験、エネルギーをそがれる経験をする、そうすると元気がなくなるっていう事があります。これは学校に限らず、例えば職場に大人が通っていても、職場で辛い事、傷付く事があれば大人も元気がなくなるように、不登校になるまでにもそういう事があるんだっていう事が一歩ですよね。

  それから、行かなくなってからが特に日本の社会では大きいと思うんです。学校という、人が作り出した制度なんですけれども、その制度にきちんと通わないと、やはり世の中の見る目がすごく厳しくなる、否定的になる。何か「行って当たり前でしょう」「何で行かれないの?」みたいな。例えばフリースクールに行って楽しくやっていてさえ、「学校へ戻れるようになるといいわねー」とかいう声がかかっちゃったりするわけですよね。

  どうやらこの社会では、本当に学校が中心で、学校へ行ってやっと大人になれるんだ、みたいに思い込まれているところがあります。考えてみると、子どもたちは、生まれ落ちた時は学校も何も分からない、赤ちゃんの脳の中にそれがあるわけじゃないですよね。でも、段々、6歳になったら学校が待っていて、「入学おめでとう」ってなって、小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年、もう今ではその上の大学院とか、学校的なものに行く人がものすごく増えてます。その長い20年以上の学校という建物の中に通って人生を作るのが当たり前だっていう社会になっている中で、学校に行かなくなる、行けなくなるっていうのは、やっぱりすごく理解されにくい。

  その理解されない、否定的な眼差しの中で暮らすのに、元気を奪われるっていう事があると思うんですね。そういう事を前提に、親の方たちに知っていただきたいという事で、私自身が学んできた中から、7つに絞ってお伝えしたいと思います。

その1 休むことを認めてほしい

  まず「その1」ですが、「休みを認めてほしい」。子どもが学校に行き渋ってるなあとか、「もう行かないよ」って言ったとか、「休みたい」って言ったとかいう時に、私も最初そうだったんですが、「えー!」「休むの?何があったの!?」と言って、それはもう既に「学校を休まれたら困る」っていうところから対応してるんですよね。子どもは、行って楽しかったり、行き続けるのが自分に合っていたら、そういうふうな反応にはならないわけですから、もう既にそういう事をチラッとでも言ったとしたら大変な事なんです。言うまでにも、すごく時間が経ってやっと言えた子もいるんですね。

  もう半年も1年も、本当は学校へ行きたくない、行きにくい、行くの辛いなあ、だけどそういう事を言っちゃいけないよな、言ったら「何言ってんの!」って言われそうだなと思って、やっと行ってる子もいるんですよね。それから、親に知られないために「行ってきます」と言って公園に行ったり、山手線一周したり、押入れの中に隠れたり、でもとうとうどこかで分かっちゃうんですけれども。そんな状態でやっと気持ちを言っても、やっぱり私たち親の反応っていうのは、「ええっ、学校行かないの?」とか「何で!?」っていうふうに、行く事を前提に子どもの話を聞いちゃう。

  これはたくさんの子どもが登校拒否、不登校をして大人たちに長い年月をかけて教えてくれている事なんですけど、学校に行きづらくなったり、学校は楽しいんだけどもう疲れちゃったとか、そういう色んな事があるわけですから、「休みを認めてほしい」これがまず第一歩だと思います。

  この「認める」も、本当はちょっと偉そうな言い方なんですよね。大人が認めないと子どもは休めないのかっていうような、そういう許可を得るようなニュアンスが「認める」に入っているので、本当は子どもにとっては休みは必要なんですよという事を伝えたいなという事なんです。でもさっき言ったように、だいたいの場合、大人は、認めたくない自分がいるんですよね。そういう場合には、やっぱり認めたくないのは「子どものために認めたくないんだ」って思いがちなんですけど、実は「認めたくない自分がいるんだ」って大人が自分の事を考えられたら、かなり「しめた!」ですよね。

  初めは、子ども側と自分側のことは、けっこう一緒になってるんですよ。「えーっ、あの子の事を考えたら、今長いこと学校を休んじゃったらもう高校受験ダメなんじゃないか」とか、「えーっ、うちの子は一旦休みを認めたら、うちの中でごろごろしちゃって、ゲーム漬けマンガ漬けなんじゃないか」とかね、「一旦家にい始めたらずーっと引きこもっちゃうんじゃないか」というふうに思って、その子のために「だめ!ここは心を鬼にして学校に行ってもらわなきゃ」って、こういうふうになりがちだと思うんですけど、それって子どものためと思ってるけど、実は自分側の不安なんですよね。

  子どもは、行きにくくなったり、行きたくないと表現したりしてるという事は、親とは違うものを学校に行きながら感じて、自分としてそれが必要だという事を、色んな形でサインを出している。それを認めたくない私がいるんだなっていうところに親がフッと気が付くと、私と子どもは違うんだから、子どもが今そうなら、そういうふうに考えていいんじゃないかなっていうふうに思えると思うんです。

  本当に子どもたち、学校で毎日毎日たくさんの事をこなしながらやってると、楽しい事もありますが、精神的にも体力的にも非常に疲れて、やはり不登校というのは疲れている状態の事を表しているわけですから、休息が必要です。「休息の権利」というのは子どもの権利条約にも認められているんですけど、意外となかなか休むというそれ自体が、子どもが出来にくい状況というのがありますね。親にとってもそれを認めていくのはなかなか難しい。

  これは過去ほど多かったような気がしますけど、でも今でも相談の中にはありますよね。子どもが嫌がって玄関の柱にしがみついているのを、指を1本1本離して連れて行った事もありますよ、って。まあでもそういうのをなさったら分かりますけれども、決してそれで、一旦ちょっと諦めて少し行くようになっても、それで本質は解決しないので、長い目で見ると「ああ、あんなんじゃあ解決しなかったな」っていうのが分かります。

  我が家でも、ランドセルを放り出して玄関をバターン!と閉めたり、父親が自転車で送っていったりしましたし、私の知っているお子さんも、車で門まで送りつけて、ランドセルとお子さんをバーン!って門の所に置いて、車でバーッと親が帰っちゃうとか、そういうのは今まででも結構ありました。

  そのように、休むことを認めないことで子どもが行くようになるかっていうと、非常に無理しながら行って、後でとうとう動けなくなるか、それとも、そんなのはもう本当に意味がなくて、そういう事をやる親に対してバーン!って色々反発が出てきたりっていう事になりますから、まずこの「その1」は基本の基だというふうに思います。

その2 不登校は義務教育違反ではない

  次に「その2」ですが、その休む事に関してしっかりと私たちが知らないといけないのは、義務教育違反じゃないっていう事なんですね。よく義務教育の「義務」を、今でも勘違いされることがあって、本当にこういう教育が行き届いてないんだなと思いますが、ご存知のように子どもたちは「教育を受ける権利」というのを持っているのであって、「その権利を保障する義務」を大人側が持っているんですよね。

  「大人の義務」というのは、行政が学校を設置したり、親が子どもの学ぶ権利を満たすために就学をさせたりする義務のことですよね。戦前だったら、口減らしのために奉公に出してしまったりして、子どもの学ぶ権利を奪う事もあったわけです。そのような大切なことを知らされてないために、子どもは今でも・・・これは東京シューレを作った頃もありましたし、90年代、2000年代に入ってからもありましたけども・・・、自分が学校に行かなくなってから、ちょっとコンビニとかに買い物に出るのでも、自分は義務教育に違反している、法律に違反している悪い子だから、おまわりさんに出会っちゃったら捕まえられるんじゃないかと思って外へ出られなかったり、自分の中の罪悪感の元になってるという子がいます。東京シューレに来てから初めて義務じゃない事を知って、「なんだあ、何でもっと早く知らせてくれなかったんだろう」と言う子がいつの時代にもいるんですけど、親もしっかりとこの事を知る必要があると思うんですよね。

  子どもは「学校に行く義務」を持っているわけではなくて、「学ぶ権利を国から保障されている」という事なんだ、だから子どもが学校に行かなくなっても決して悪い事や駄目な事じゃないんだっていう、基本の事を知る必要があると思うんですね。

  これについても、自然に分かってもらえてきたわけではなくて、その時その時の闘いがあったんです。初期の頃ですけど、東京シューレがある集会を開いた時に、かつての会員の子どもが「僕は学校に行かないでフリースクールでやってるんです」みたいな事を言ったら、「君達はまちがっている。学校は義務なんだから行かなくてはいけない」と会場から言われて、そのシューレの男の子が「いや、そうじゃないはずです。僕はこんなふうに聞きました」って、さっきの考えを言ったんですね。そうしたら弁護士さんがその時に司会をされていて、「そうですよ」って、「今のシューレの子たちの考えが正しいんですよ」っていうふうに解説をしてくださった。

  そうしたら、その会場にいて質問をした、大学4年生の教育系の将来教師になる人が、後の感想文に「私自身がもうすぐ教師になるのに、そういう基本の事を知らないで恥ずかしかったです。今日は教えていただいてありがとうございました」って書いていました。本当にその感想を見て「やったー!」って思いました。たった1人の質問でしたけど、会場の人はその質問をその人が出してくれたために、みんながその時知ったんですよ。「ああ、なんだ。法律ってこうなってるんだ」って。そういう意味では子どもを守っている法律のわけですけど、親もそれをしっかり知っておく必要があると思うんですね。

その3 言葉の奥にある、本当の気持ち

  「その3」ですけど、「休んでいいよ」っていうふうに親は言ってるのに、子どもが「僕は行きたいんだ」とか「明日は行くよ」とか言うことがあります。それで親としては混乱を起こしちゃうんですよね。私たちが時々相談を受けるのが、「奥地さんは行きたくないって言っている子を無理に学校に行かせる事はないって言うけど、うちの子は行きたいって言っているんです。だから学校へ行かせてやるほうがいいんじゃないか」っていうふうにおっしゃるんですね。私も教師をやっていた頃に、同僚がよくそう言いました。「無理に迎えに行って連れてきて、学校に来れば元気にやっているので、行きたいって言うんだからいいだろう」って言うんですけど、その子は学校に行ったらその後はものすごく疲れていたんですね。

  その子どもの言葉なんですけども、「行きたい」って言うのは、私も最初の頃、自分の子どもが度々そういう時期がありました。親はまだ何もよく分かっていなくて混乱状態で、「どうするの?」って聞いたら、「行きたい」って言うんですよね。だけど実際には、ちょっと行ってまた休んじゃうか、「行きたい」って言いつつ起きてこない。後に、もっと深くわかってくると、「行かねばならない」の「行きたい」なんですね。「やっぱり行ったほうがみんなが心配しないだろう」とか。自分も不安なわけですよね、学校休んでいていいんだろうかって。そうすると、ちょっとでも行くと、ちょっとその不安が薄らぐことはありますが、でも本当に学校に行く事を望んでいるかというと、本音はそうでもないし、しんどいんですよね。言葉としてはそういう言葉になるけど、本音はちょっと違う気持ちがあるんだっていう時に、親のほうが言葉の表で取っちゃうと、なかなかこれがズレちゃいます。

  親の会でもよく出ますが、例えばお子さんが苦しい時に、お母さんに「死ね!」「クソババア!」とか言ってる。その「死ね!」っていう言葉で、すごく親はショックを受けるわけですよ。「こんなに子どもの事を心配して、一生懸命どうしたらいいのかなって考えたり、やれるだけの事をやっているのに、死ね!って言うんですよ」って、涙が出てきちゃうわけですよね。でも、私たちは段々子どもの気持ちが分かってくると、「死ね!」っていうのは本当にお母さんに死んでほしいんじゃなくて、今、ものの考え方がどうしても子どものところに立てなくて、「こうが普通でしょう」「こうが当たり前でしょう」「みんなこうしているじゃない、どうして出来ないの」みたいな気持ちで向き合ってる、その今のお母さんは死んでほしいんですよ。だけど、もっと別のお母さんになってくれるのなら、お母さんはいてほしいんですよね。

  でも「死ね」という言葉になるという事で、子どもたちの言葉の中に表れてくる奥のものって言うんでしょうか、葛藤している時の苦しさって言うんですか、それが色んな形で出てきますから、その言葉どおりというよりは・・・言葉どおりも大事なんですよ、だけどもその言葉に込めた奥の気持ちが全然裏腹の事もありますから、それを感じ取りながらやっていくのが大事かなと思います。

その4 「待つ」とはどういうことか

  「その4」ですけれども、そういうふうに私なんかは「学校に無理に来ないで休んだらいいんじゃない?」とか言いますよね。そうすると、「いつまで待ったら動くんですか?」って言われるわけですね。「我が家は学校に行けって言ってないのに、やっぱり何だか元気がありません」とかね、「今でも何だかイライラしちゃって、夜なかなか眠れないんです。もう3年も、一言も学校行けって言ってないですよ」みたいな、そういうお話もあるんですよね。だけど、これってやっぱり、待ってたら自動的に元気になるっていう考えも、ちょっと違うなあっていうふうに思うんです。

  「待つ」というのは、ある一定の姿、あるべき姿を親が想像して、そこにすぐなれないから待ってるんだ、時間かけてるんだ、と。でも段々、そこに至ってくれないと待てなくなっちゃって、ついつい、子どもに言うのは良くないかなって思うから、親の会とかスタッフにそういう話が出たりするんですけれども、やっぱりその子どもにとっては、まず一つは時間がいるっていう事がありますね。やはり心の整理が必要です。なぜなら、日本社会で学校に行かないとか行けないっていうのは、かなり大きな事だと思って間違いないんですよね

  「みんな学校行って当たり前でしょう」って大勢の人が思っている中で、そうではない自分を確保しているというのは、そういう意味では賞賛に値するくらいすごい事なんです。これは、賞賛に値するかどうかは考え方色々ですよ。「将来が心配だ」「もう辛いばかりで全然理解されない」「特別扱いされた」とか、色々あるのに、何ですごいんだと反撥される方もいるでしょうが、でも、大勢と違う自分を生きるというのは、すごいエネルギーもいるし、すごい精神力もいると思うんですね。そして、そういう中で、やはり自分の心の整理っていうのは時間かかります。学校に行かない自分、行けない自分を受け入れる事が出来れば、段々整理がついてくるんですけど、そんな事ってすぐには出来ないですよね。

  大人は「シューレの本を読んだよ」とか、「カウンセラーも見守りましょうって言ってくれてる」とか、「知り合いのお兄さんは、不登校だったけど今は大学に行ってるんだよ」とか、「こうやって働いてるよ」とか、色んな事を知ります。だから、「今まで学校学校って思っていたけれども、何かもうちょっとそれにこだわらないでいいのかな」なんて考える事が出来るし、その情報が入りやすいと思います。

  だけど、子どもは大人ほど情報がなくて、あるのは学校情報ですね。もうテレビも本も友達の話も、だいたい学校に絡んでる文化の中で出てくるわけですから、そこら辺は、学校の問題をどう考えようかというのは苦しいと思いますね。そこで、答えとしては、家庭が本当に安心できる居場所にならないと、なかなか苦しさは減らないですよ。「いつまで待ったら動くんでしょうか」って考えているうちは、やっぱり子どもにとっては本当の意味で肯定されてる気持ちがしないので、まだまだ時間がかかる、まだまだ苦しい気持ちになるという関係になっていると思います。

その5 「自分は自分でいい」と思えることが大事

  「その5」ですけども、「自分は自分でいい」って子ども自身が思えるっていう事が、大事だと思います。元気になった子たちと付き合っていると、そこのところが自然に思える場合もあるし、誰かの話を聞いて、出会いが良くてそういう気持ちになれたんだっていう事もあると思います。しかし、ここが簡単じゃないんですが、学校を休んでいいよって認めていれば元気になるっていうわけじゃなくて、やっぱり社会の中で罪悪感とか自分を責める気持ち、自責感を、どうしても子ども自身も持ちやすいということがあります。私もたくさんの子に出会ってきましたが、不登校になっても罪悪感、自責感を持っていない子がたまにいるんですよね。それは親にしてもからっきし持っていなかったり、その子自身がアイデンティティがはっきりしていて、「俺は俺でいいじゃんか」って初めから思えている子もいます。でも、なかなかそうはいかない。

  私自身も、長男が不登校の時、「早く元気になって学校に行ってほしいな」って思っていて、でもそう思っているが故に子どもはどんどん辛い状態が続いて、拒食症になっていったんですね。その拒食症の時に、今はもう亡くなられた渡辺位さんにお会いして、たった一回ですけれども、その一回の出会いで拒食症が治っちゃったというか、おにぎりがパッと食べられるようになって、夕食から普通食に戻ったんです。その時に子どもに「お母さん、僕は僕で良かったんだね」って言われて、初めて私は「何だ、一生懸命に子どものためと思って色んな事をやってきたけど、あんたはあんたでいいねっていうようなメッセージじゃなくて、あんたじゃ困るよ、いつになったら他の子のように元気になって学校に行ってくれるようになるの?っていう気持ちで対応してきたな」と。それは、子どもにとってはどんどん存在を否定されてる事で、多分、元気になったら「あ、元気になったからまた学校行けるよね」ってやられるという事でもあったんだなって、後で気が付いたわけですね。

  このように、私の場合には渡辺位さんとの出会いで、子どもが「僕は僕で良かったんだね」って気が付いた事と、私や夫が「他の子と同じように」とか、「常識はこうだ」じゃなくて、「この子はこの子でいい」という、そういうものの考え方とか対応のしかたを、親がやってこなかった間違い、それに気が付いたところから、バーッと変わっていくわけですよね。

  でもこの事は、私はたまたまそういう出会いがあったんですけど、誰かに委ねて、いい専門家の人と出会いなさいっていう意味じゃないんです。いい専門家と出会うのは、それはそれで良かったと思いますけれども、一番子どもの身近にいるのは親ですよね。ですから、親が出会いの人になればいいんじゃないですか? 子どもから見て、そういうものの考え方をしている親の方に出会えば、毎日毎日親と暮らしているわけですから、そこで「この僕でいいのかな」って思えてくれば、やはり段々元気になってくる、無理に元気にしなくても自然に元気になってくると思います。

  やっぱり、そういうふうに思えるためには、家庭だけじゃなくて居場所とかフリースクール、教育センター、サポート校など、色んな子どもが行く所、特に不登校の子どもが行く所も同じです。それらも場所さえあれば元気になるっていう事はないですね。私はある子にはっきり教わったんですけれども、「東京シューレに行ってても、最初は居場所って感じられなかった」と言うんです。何とかして高校に戻ろうとするんですね。それでまた追い詰められて入院して、みたいな事があったんですけれども、段々「東京シューレが居場所になってきた」ってその子が感じたわけですよ。その時に、「自分が自分であっていいんだなって思えたら、居場所も居場所って感じられるようになった」って教えてくれましたね。だから、やっぱりこの「自分が自分であっていいんだ」というのが大事で、「こんな自分はダメなんだ」「早く何とかなんなきゃ」っていうのでは、居場所とか色んな所に通っていても、それは居場所になっていない、っていう事になると思うんですね。

その6 親がまずつながろう

  「その6」ですが、私はそういう支え方をしていくためには、親が繋がり合い、学び合う場が大事なんじゃないかってすごく思ってきました。私は最初、自分が非常に苦しかった時に、国府台病院の中に「希望会」という親の会があったんですけど、その後、病院の中で自由にその会が出来なくなったため、新たに「登校拒否を考える会」というのを呼びかけて作りました。その親の会から始まって、それは今でも続いて27年経ちます。それから、シューレの中でも「親ゼミ」とか、会員にならなくても親だけが話し合う会だとか、保護者会もそうですけど、色んな親の会をやってきました。

  葛飾区でもまた、区の協力を得て親の会をやっているわけなんですけれども、親が孤立したら一番駄目だなっていうのをすごく感じてきました。やっぱり、9割以上が「学校へ行って当たり前」と思っている社会ですから、それが出来ないのは「親の育て方がどこか悪かったんじゃないか」とか、「その子はやっぱり甘えがあるんじゃないか」とか、「精神的に弱いのよね」とか、色んな言葉を受けますよね。そういう中で、うちの子は学校へ行ってないとか、行ったり来たりになっちゃってるっていう時に、親が辛くなっちゃうんですよね。孤立してたら、その辛い自分っていうのを支えきれなくなりますね。

  身近に誰か話せたり、相談に乗ってもらえたり、力になってくれたりする人がいればいいんですけど、だいたい周り中が学校に行ってるお子さんの親ですから、やっぱり親の会に出会って、本当に話が通じる、自分の辛い話も掛け値なく出せる、他の方がどうしているのかを聞いて、それが自分のヒントになる、そういった親の会というのは、とても親を支えるな、という事を感じました。私自身もずっと親の会に参加して、自分がハッとする事とか、たくさんの事を学んできましたね。そういう子どもと付き合っていく時に、「寄らば大樹の陰」という言葉がありますけど、子どもから見たら子ども自身が辛かったり不安だったりする時期に、親も不安になって辛くて大揺れしていたら、親子一緒に揺れちゃって支えきれなくなっちゃうんですよね

  そういえば思い出しましたけど、私なんかも最初、不登校って何が何だかよく分からない頃、やたらに辛くて悲しくて、朝、集団登校で近所の子たちが呼び合って登校している姿が洗濯物を干していたりすると見えるわけですよ。その姿を見ていると、干しながら涙が出ちゃったりして、そういうのを子どもたちは「涙目」って言うんですよね。もう「涙目で見られたらたまらんよな」って。「やっぱり、俺が学校に行ってないからだろう」って、子どもはより心の中で責められちゃうんですよね。

  そういう事ではない。制度としての学校、本当は権利としての学校にもかかわらず、そこでいじめ、その他色んな事があって、そこを使わなくなっているっていう、そういう関係なんですが、親は自分が学校に行くのは当たり前として育ってきていると、とても悲しくて辛くて、どうしていいのか分からなくなります。そんな時に、やっぱり仲間とか先輩とかのお母さんたちと話せたり、経験を聞いたりするという事に、支えられる。親が元気になると、お子さんも元気を取り戻しやすいっていう事が言えると思うんですね。そういう事がありますので、おすすめは、親の会を「ちょっと行きにくいな・・・」って思っても、一度参加されてみたらどうかな、っていうふうに思います。

  私は、「親の会に行きづらい」っていうのは分かるんですね。特に80年代頃は、親の会をやるのに公民館とかに看板が出ていて、「登校拒否を考える会、どうぞ」って書いてある。そこの会場に入るだけで「あの家は登校拒否の子がいるのね」って見られるんじゃないかとか、そのため聞きに行きたいけど行けないので、テープだけ送ってもらえませんかとか、そういうような事をたくさん言われた時代もありました。また、今もまだ辛い状態で、まだまだお子さんが安定するのに時間がいるかなっていう時に、「親の会に来てみませんか」って誘ったら、「そこへ出るエネルギーが自分は出ないんですね」と。そのくらい親の方もしんどいわけですよね。それも分かるので、しんどい時は無理しないでいいんですけど、でも「親の会があるんだな」って知っておいていただくだけでいいですし、電話をかけるだけでも、それから色んな情報を受けるだけでも、また違ってくるかなって感じます。これは一つの大切な事だろうと思います。

その7 子どものニーズにどう応えていくか

  「その7」として、やっぱりどう子どものニーズに応えるのかっていう辺りなんですけれども、私たちが目指しているのは、これはもう学校であれ家庭であれ地域社会であれ、子どもの本当の幸せだと思うんですよね。子どもの本当の幸せっていうのは、お子さんによって全部違うと思うんですよ。ある子は、自分の好きな趣味を出来るっていう事が一番の幸せかもしれないし、ある子にとっては、高校に行けたっていう事が幸せなのかもしれないし、ある子にとっては「大学まで行かなくていいよ」「お前が働きたいんなら働いていいよ」って言われた事が幸せと思うかもしれないし、もうみんな違いますよね。

  その目指す本当の幸せっていうのは色々なんですけど、とにかく子どもがいじめられようが、学校を休もうが、過去にどんな事があったとしても、今が幸せだろうか、これからが幸せだろうかっていうところが大事だと思います。でも、私たちはどうしても過去にこだわっちゃうという事があるんですけど、今を幸せにする、これからを幸せにするんだったら、やっぱり色んな子どものニーズに応えていく、これを真剣にやっていく事が大事だと思うんですよ。

  このニーズって色々ですよね。ある子にとっては、もう誰にも会いたくない。もう夜昼逆転して、起きてくるとゲームをやったり、パソコンをずっと一日中いじっている。それから、夜もみんなが寝てからゆっくり音楽聴いて、それでホッとしている。そういうふうにしたいんだ、それ以外したくないんだ、みたいな時には、それがニーズだと思うんですよね。家族にとってはそういう暮らし方をされると、「何かやりにくいな」って思われるかもしれませんけど、一番辛いのはそのお子さんだっていう時には、やっぱりそのお子さんのニーズっていうものを大変真剣に考えて、お子さんが少しでも楽になられる道を考える。

  あるお子さんにとっては、だいぶ元気が出てきて、うちが退屈でしょうがない。もう「友達がほしいよ」「親の顔ばっかじゃもう見飽きたよ」とかね。でも、「じゃあ学校あるじゃない」と親が言うと、学校では色んな事があったわけですから、「うん、また学校行ってみるよ」って言う子もいるけれども、「えー、二度とあそこは行きたくない」と言うかもしれません。「じゃあ別の学校行くー?」と転校させようとする話も出たりしますが、転校して上手くいくとは限らない。上手くいかないほうが多い、と考えていただいたほうがいいかもしれません。そうすると、どこか友達を作るために行くといっても、学校にこだわっているとなかなかそれがない。そうしたら親としてはどう考えようか。

  それから、段々進路が不安になってくる。すごく苦しい時は進路どころじゃないですね。進路の話さえ嫌ですね。だけども、少し落ち着いてくると、「俺はこれからどうしよう」とか、「今、友達はこうしてんのかな・・・」とか、色んな事を考えるようになり、進路のためにどうにかしなきゃとか、そういうニーズが色々出てくる。その成長過程で出てくるニーズに、保護者は応える必要がありますよね。家で出来るものは家で叶えてあげるっていう方向で、やっていけばいいと思うんです。

  ただし、このニーズも親の会でもよく出てきますけど、色んな時期があるから、例えば、あれ買ってくれこれ買ってくれって言って、お金がもう財布に穴が開くくらい出る時もある。それを我慢させようと思っても無理で、「先月も買ってあげたでしょう!」なんて言おうものならバーッて暴れが出ちゃう。そういう時に、ニーズに応えるといっても、その表面のニーズじゃなくて、辛くてたまらない心がそうさせているわけですから、その辛いところをキャッチして、ちょっとでも楽になるにはどうしたらいいかっていうのも考えないといけない。よく「そうやってどんどん欲しいって言うから買ってたら、甘やかしなんじゃないですか」みたいな事が出てきますけど、飽くまでお子さんのニーズっていうのは色んな形で出てくる、その奥にある事も考えてという事になりますけれども、基本的にはそのお子さんの成長過程で出てくるニーズに本気で応えていく。

  その時に、学校ルートを通っている人というのはわりと社会で太い筋道が出来ている。まあそれが嫌だっていう人もいるんですよ。エレベーターに乗っているようで次々に上げられるようで嫌だと。だいたい社会の仕組みというのはわりと出来ている。だけど、学校に行ってない子にとっての社会の仕組みっていうのは、そうそう十分に出来ているわけでもなく、またフリースクール等を私たちは作ってきましたけど、それがちゃんと税金で応援されているわけでもなく、そういう中で、さてどういうふうにニーズに応えたらいいだろう、という事になりますね。

そのほか色々お伝えしたいこと

  そろそろ時間がなくなってきました。そのほかいくつもお話ししたいことがありますが、まず、ここで「不登校の子どもの権利宣言」の話をちょっとしたいと思います。皆さんの封筒の中に、「不登校の子どもの権利宣言」という資料が入っていると思うんです。これは東京シューレの子どもたちが、2009年に、自分たちで経験を出しながら、自分たちの権利に気が付いて、このもとになっている「子どもの権利条約」を勉強しながら作ってきたものです。この権利宣言は、元気になるには素晴らしい事がいっぱい書いてあるんですね。この中に「学ぶ権利」というのが書いてあります。「私たちには、学びたい事を自身にあった方法で学ぶ権利がある」「学びとは私たちの意志で知る事であり、他者から強制されるものではない」っていうふうに、「私たちに合った方法」って書いてありますね。

  それから3の章には、「学びや育ちの権利」って書いてありますね。学校、フリースクール、フリースペース、ホームエデュケーション等、どのように学び育つかを選ぶ権利がある、と。このような権利を私たちが真剣に考えて、皆それぞれ、個々に違う学びについて叫びを上げているわけですから、それに応える多様な育ちの場がいるんじゃないだろうかと。私たち東京シューレは長いことやってくる中で、3ヶ所のフリースクール、家で育つ事を応援するホームシューレ、若者が創るシューレ大学、そういう色んな場が出来ていっています。それからさっき申し上げた葛飾中学校ですね、ここも公教育の中でフリースクール的な場が欲しいという事で出来ていますが、こういった事なんかも色々知っていただくと、もしかしたらお子さんに繋がるような、何か情報が得られるかもしれません。

  今日は会場にそれぞれの部門のブースが出ているんですけれども、終わってから相談でもいいですし、直接情報を手にしていただくのもいいんじゃないかと思います。私たちは、まだまだお子さんに合った形を作り出していく必要があると思っています。

  不登校をしているのは自分一人じゃないなって知るのも元気になりますし、仲間と出会えたっていうのも元気になる道の一つだと思います。それから、子どもに「不登校をしていても将来は作れるんだよ」って、知ってもらう事も元気になる道ですし、それから、子どもから見たら「俺は今ダメだ」と思えたりするわけですけど、どんな自分も見捨てられない安心感、これはもう一言で言うと親の愛情って言いましょうか。

  それから、不幸にして親が、色んな状況がありますので、なかなか子どもの味方をしてやれないよ、みたいな時には、親じゃなくても、第三者の方・・・スタッフでも、児童館でも、カウンセラーでも、どなたでもいいと思うんですよね。本当にあの人は味方だっていう人が一人いたら、やっていけるかなと。

  こういった、たくさんの事を挙げれば、まだまだ50や100あるような気がしますが、今日は基本的な事をお話ししました。まとめると、やはりお子さんが「ありのままでいいんだな」って思えて、そしてそれぞれの個性が違う・・・これは発達障がい等も含めて、それぞれ違う個性がある中を、その子に合った多様な育ちが出来ていく・・・こういう社会になれば、お子さんたちは元気でやっていきやすいのかなっていうふうに、私は子どもや若い人たちから学びました。

  私の話はこれで終わりたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。